癒せない傷口と痛みを抱えながらも、ごくささやかで小さなハッピーエンドを迎える交響曲第8番

ショスタコーヴィチの交響曲第8番とは、つまり「帰還」の音楽なのである。それは人間への帰還だ。決して華々しい凱旋もなければ、何の克服もできないけれど、悲しみの中にごくささやかな、小さなハッピーエンドが訪れる。

 

8番には、しばしば暴力的な描写が突出して現れる。ティンパニ、大太鼓、小太鼓の最強音によるトレモロに導かれ、その他の打楽器群と全オーケストラの強奏でマックスとなるこのテーマは、第1楽章、第4楽章冒頭、第5楽章にほとんど同じ形で現れる。このテーマを、「傷口と痛みのテーマ」と呼んでみる。

 

その「傷口と痛み」であるが、想像しうる限り最も痛い傷口だ。戦争によって与えられた傷である。

映像作品を例えればイメージしやすいということなら、映画『プライベート・ライアン』の冒頭のノルマンディー上陸作戦の強烈な人体破壊描写を思い浮かべてみてもいいが、よりリアルで生々しい傷口の方がいい。裂傷を受け、血が噴出し、削がれた肉は捲れ上がり、傷口にじわじわと両手を突っ込まれ、無理矢理に押し広げられて抉られるような痛み。

それが、例えば腹なら臓腑を露出し、小腸は体に押し戻せないぐらいこぼれ出てくるだろう。引き千切られるような痛み。そういう具体的で肉体的な痛みをイメージしてみたまえ。

あくまで、直面しているのは「肉体的で直接的な痛み」だが、そこには当然ながら精神的な痛みもある。家族が爆撃で吹き飛んで四散したかもしれないし、妻(恋人かもしれない)や子供、大事な人々の命が多数失われていったのだ。

 

8番の「傷口と痛みのテーマ」がスプラッターであるというのなら、戦争そのものがスプラッターであるということだ。戦争を描こうとしたとき、リアルを目指せばこういう描写になる。

11番には虐殺の場面が存在するが、8番の「傷口と痛み」とは表現が異なる。11番には機関銃を撃ち鳴らす軍隊の前進を模した大太鼓や小太鼓、叫び声を模した木管高音や木琴が現れ、それこそ強烈な情景描写で蹂躙されるが、8番の場合はある場面を描こうというものではない。

音楽そのもので、その音響でもって傷口と痛みを表現すれば、ああもなろう。

 

8番が戦争交響曲であるのはよく知られていることで、この曲が戦争をテーマにしていることには間違いはない。

第7番「レニングラード」に続く二次大戦もので、ドイツを返り討って勝利したスターリングラード戦がそのモデルと言われることもある。時期的にはそれがきっかけになったということは言えるだろうが、レニングラード交響曲のように、スターリングラードという都市そのものを描いたとは言い難い。

スターリングラードの戦いは、その後の逆転勝利につながるソビエト反撃の第一歩であり、見事に勝ち戦だが、局所的な戦闘を描写したものではない。7番と同じ戦争交響曲でも、8番はそれを俯瞰的に見ながら個人的な内面に踏み込んでいく戦争そのものを描いているとしてほぼ間違いはないと思われる。そして大事なのは、「この新作は、未来を、戦後の時代をうかがう一種の試みである」(『文学と芸術』1943年9月18日号、『ショスタコーヴィチ自伝』p.135)と語っているところだ。それについては5楽章の項で書く。

 

第1楽章の冒頭部分、5番と似た構造を持ちながらもその緊張感は分かりやすい。正体不明の敵を模索する5番と違って、8番がよりストレートに響くのは、はっきりと戦争と対峙しているからだ。徐々に緊張感を増して、悪、ダークサイドとでも呼ばれるものを担った打楽器群が鳴り始める。

三つの8分音符を小太鼓が撃ち始めると、それはもう強力な攻撃性を発揮し始める。その攻撃性は「あちら側」にも「こちら側」にもある。二元論的な見方をせずとも、戦場の攻撃性が最高まで高まっていく過程である。その攻撃性がいったん爆発すると、変拍子を含む不気味なリズムの中で、最後には崩壊寸前の極限状態の中でついに「傷口と痛みのテーマ」を導いてしまう。

それは、「これまでの全て」を圧倒的、徹底的に破壊し尽くし、その余韻たる弦楽器の激しいトレモロの後には、虚ろになったコールアングレの長いソロが残る。

その後にも悲しいモノローグが続くが、決して感傷的ではない。それはショスタコーヴィチ特有であるが、感傷的であることに美学を求める状況にはないからである。破壊し尽くされた不毛の地を、魂さえも失って彷徨っているのだ。

 

第2、3楽章に配置されたスケルツォはどちらも過剰なまでに暴力的だ。

再び11番を例えに挙げれば、それと違って8番は一つの物語を追うような構造を持っているわけではない。物語を進めることによってではなく、あくまで交響曲として戦争を表しているからである。中間楽章にはスケルツォが配置される。それも、なぜか2回。

 

それがヒトラーとスターリンを表しているとまで言うつもりはない。

しかし、スケルツォで表現された暴力の対象が二つあったことは事実なのだ。それは自ら抱えている暴力や攻撃性かもしれないし、ソビエトとドイツ双方の軍隊だったのかもしれない。または、連合国と三国同盟(あるいは枢軸国)だったのかもしれない。いずれにせよ、暴力性や攻撃性といった破壊を促すもの、それを「悪」と言ってもいいが、その悪は一面では語られないことなのだ。

 

第2楽章は、一見軽快な4拍子で、強弱がはっきり見えるリズミックな音楽である。が、やはりこれも悪を背負った打楽器群が主張し始めた頃に、2楽章冒頭より感られたどこかひねくれた空気、ダークサイドを確信することになる。

サスペンデッド・シンバルのトレモロがダークサイドの霧を撒き、急かすような木管と高弦の16分音符の下で、アクセントを伴う長めの音で木管低音、金管、低弦がクレッシェンドし、それらが頂点に達するところで、大太鼓の16分音符を含む激打が始まる。それをやはり小太鼓が継承し、弦楽器の狂気に満ちた高速パッセージの展開に要所で16部音符が撃ち込まれる。

 

3楽章は最もヒートアップする楽章である。しかも、それは決して明るい騒乱ではなく、暗い狂気に満ちているのである。

マーチでありながらリズミックであることを避け、テンポは速いながらも非感情的で機械的なヴィオラの無窮動の4分音符に始まる。これが「攻撃性」なり「暴力」なりが歩みを進める姿だというのは、後に完全にマーチの曲想を帯びた辺りではっきりしてくる。

その攻撃性が無感情に巨大化した後に始まるマーチ(大太鼓とシンバルがズンチャンズンチャンと奏でる典型的な)伴奏に乗って、トランペットがいかにもショスタコーヴィチらしい調子っ外れのソロを待ってましたとばかりにぶちかますのだ。つまり、突撃ラッパである。

直接的な描写であるかはともかくとして、「もう引き返せない狂気」が機械的に突き進み、ついに号令が掛かったのである。

合いの手を入れるのは、「悪の象徴」たる小太鼓だ。小太鼓のソロで号令のラッパが引き下がると、再び3楽章冒頭のテーマが現れる。しかし、もう号令が下った後なので、その攻撃性はただ勢いを重ねていく。やがてコペルティ(打面に布を敷いて響きを止める奏法)でフォルテシモのティンパニが無窮動に加わり、そのテーマを無慈悲なまでに巨大化させる。

オーケストラ全体の強奏とクレッシェンドによって、全曲中最大の音量(全オーケストラがsffffにアクセントの指定)まで持っていかれ、全てが破壊される。

衝撃的な打撃音、小太鼓の長い連打によるブリッジを経て、曲は4楽章へと流れ込む。

 

そうして訪れた4楽章冒頭は、あの「傷口と痛みのテーマ」をさらに大きくした最悪の場面だ。全楽器がフォルテ三つからの強烈なクレッシェンドを掛ける。

7名の打楽器奏者は最強音。1楽章で経験した「傷口と痛みのテーマ」が再びやってきたことで、戦いが終わると共に、今度こそ、徹底的に打ちのめされる。

4楽章はレクイエムである。パッサカリアの構造を持ち、主題が現れるとその後11回も繰り返されるのだ。最後、11回目になるとようやく温かみのあるクラリネットが現れる。それが故郷への帰還を導く。

そして、音楽は5楽章へと続く。

 

この曲は「ごくささやかで小さなハッピーエンドを迎える」と初めに書いたが、まずはショスタコーヴィチ自身の言葉を引用したい。

 

フィナーレ、第5楽章は、いろいろなダンスの要素、民謡風のメロディーをもった明るい、喜びにみちた牧歌的な音楽である。(中略)この新作の思想的、哲学的概念はごく単純化していうと、わずか2つの言葉で、生きることは美しい、というふうに言い表すことができる。あらゆる暗くて陰気なものが消え去って、美しいものが勝つ。(『文学と芸術』1943年9月18日号、『ショスタコーヴィチ自伝』P.136)

 

ショスタコーヴィチの言葉をそのまま受け取ってはならない。

公式に世に出ているものは特に。彼が二枚舌の作曲家だったということを見過ごしてはならない。

8番に関してもそれは言えるだろう。上記の自解説は完全な出鱈目ではないだろうが、誇張しているのは確かだろう。しかしそれでも、フィナーレを肯定的に捉えた発言は注目すべきだし、ダンスや民謡の要素を引用している点も興味深い。

そして何より、この楽章はハ長調で始まり、ハ長調で終わるのだ。ハ長調の曲と言えば、例えばベートーヴェンの第5交響曲の終楽章を思い浮かべてみれば分かりやすいが、ハッピーエンドの調性なのである。しかしもちろん、第8交響曲に用意されたクライマックスが、ベートーヴェンの5番と同列のハッピーエンドであるはずがない。つまり、永遠に「傷口と痛みのテーマ」は消えないからだ。

 

4楽章で戦いは終わる。そして、ある兵士(別に軍人でなくても構わない)を仮に主人公として見るなら、彼は故郷に帰還する。

それがノスタルジックな民謡の旋律であり、ダンスの要素だ。それらは決して大きく奏でられない。記憶の中で鳴るかのように、決してオーケストラ全体で主張することはなく、ソロを渡り歩きながら、現れては消えていくのだ。金管楽器や打楽器を重ねないのは、それらが背負った悪の要素を排除しているとも考えられる。

帰還は、単に戦場からの帰還を指すだけでなく、人間性への帰還も示している。

 

帰還した故郷は、焼け野原だっただろう。かつての美しい町並みは消えていたはずだ。それが戦争の傷跡だし、無傷でいられるわけがないのだ。

ようやく帰ってきた兵士の心だって、戦場で深く深く傷付き、凍り付いている。肉体だって傷付いているのだ。片腕や片足を失っているかもしれない。

そんな彼が戻ってきても、迎えてくれる家族も既に死んでいたのかもしれない。それは4楽章の悲痛なレクイエムで表された通りの結果だ。戦争が終わっても、あのときの「傷口と痛み」は、何かのきっかけでまたフラッシュバックする。5楽章に不吉な空気が漂い始めると、それは成長してティンパニの激打による前奏を伴って「傷口と痛みのテーマ」が再現されてしまう。恐怖の記憶だ。それは決して拭えるものではなかったのだ。

 

それが去った後、バスクラリネットをはじめとするいくつかのソロを経て、音楽は静かに収束していく…。

 

戦争で多くの人が死に、二度と癒されない「傷口と痛み」を負った。それは絶対に元通りにはならない。

例えば『ドラゴンクエストIII』。大魔王ゾーマを倒した代償に、「ギアガの大穴」が閉じて主人公たちは元の世界に帰れなくなる(あるいは元の世界そのものが消滅してしまった)。「魔王を倒してみんな幸せに暮らしましたとさ」なんてありえない。戦争に勝ったからといって、華々しいファンファーレが鳴り響く盛大なフィナーレなんてありえないのだ!

 

だから第8のフィナーレは、静かだ。

失われていったものに思いを馳せ、そして癒えることのない傷口と痛みを抱える。

ヴィオラのピチカートに導かれるフルートのCの音。これがショスタコーヴィチのハ長調だ。

 

決して勝利に歓喜するのではない。

何かを克服して勝利の凱旋をするものではない。傷口と痛みを抱えながらも、それでも故郷に辿り着き、しかし破壊された故郷の中で一筋の希望を見る。その希望とは、もしかしたら幼馴染の恋人がそっと迎えにきてくれたのかもしれないし、あるいは全てが破壊され凍った大地から、小さな芽が息吹いていたのかもしれない。

そんな、幸せにつながる何かを見つけるのだ。

もし、「幸せに暮らしましたとさ」なら、それで終わりだ。彼らの人生はそこで凍結してしまう。ショスタコーヴィチが言った「戦後の時代をうかがわせる」というのは、この音楽が辿り着いたところから感じられる「わずかな希望」のことだ。

 

そして、コーダは若干の動きを見せようとするものの、それもやがてはピチカートとフルートの優しい響きに包まれていく。

(了)